ベテランのコツや勘を生成AIで引き出し、次の世代に残す。そんな取り組みが、大手メーカーや研究機関で広がり始めています(時事ドットコム、2026年8月21日)。AIがインタビュー役としてベテランから経験を聞き出し、その内容をもとに若手の質問に答える。数年前なら構想止まりだった仕組みが、実際に動き始めました。
一方、従業員30〜300名規模の会社からよく聞くのは、もっと手前の話です。「あの人に聞かないと分からない業務がある」ことは、経営者も現場も分かっている。それでも、何から手をつけるかが決まらないまま時間が過ぎていく。今回は、AIの導入を検討する前に決めておきたい「最初の一歩」について書きます。
「辞めると決まってから」では、たいてい間に合わない
引き継ぎ期間は一般に1〜2か月とされますが、十数年かけて積み上げた判断基準や取引先との関係を、その期間で移し切るのは現実的ではありません。
あるIT企業の情報責任者は、基幹システムを支える担当者の年齢構成を調べたところ、5年以内に多くが定年を迎えることが分かったと語っています。新しいシステムへの移行には3〜5年かかるため、移行の途中で運用を知る人がいなくなる計算でした(TechTargetジャパン、2026年8月14日)。知識が失われるリスクは、問題が起きるまで水面下で静かに進む。これは情報システム部門に限った話ではありません。
分かっていても手が止まる、二つの事情
一つ目は、優先順位がつかないことです。「属人化している業務」を挙げていくと、経理も、見積も、クレーム対応も、現場の段取りも当てはまってしまう。全部が対象になった瞬間、着手できなくなります。
二つ目は、ベテラン本人に時間がないことです。多くの解説記事は「ベテランに30〜60分話してもらい、それをAIに整理させる」という手順を勧めます。方法としては妥当ですが、その30分を今月どこに入れるかが決まらないまま止まっている会社が少なくありません。
背景も数字に表れています。帝国データバンクの調査では、生成AI活用の懸念・課題として「専門人材・ノウハウ不足」が41.3%で2番目に多く挙がりました(2026年3月調査)。中小企業基盤整備機構の実態調査でも、不足している情報の第1位は「成功事例や活用事例などの情報」で83.3%にのぼります(2026年3月)。手法が知られていないのではなく、自社に当てはめる順番が決められていない、という状態です。
41.3%
生成AI活用の課題として
「専門人材・ノウハウ不足」
83.3%
不足している情報の1位は
「成功事例や活用事例」
インタビューの前に、「聞かれた回数」を1週間だけ数える
そこで提案したいのが、AIの検討よりも前に置く、地味な作業です。1週間だけ、社内で「誰が」「何について」「何回聞かれたか」を数えてみてください。ノートでもチャットのメモでも構いません。
1週間分が並ぶと、たいてい上位3つほどに偏ります。この「聞かれた回数が多い業務」は、退職リスクの大小にかかわらず、今この瞬間に誰かの時間を奪っている業務です。優先順位を議論で決めようとすると立場や声の大きさに左右されますが、回数という事実は共有しやすく、ベテラン本人にも「この件、月に何度も聞かれていますよね」と切り出しやすくなります。
順番としては、退職予定から逆算するより、聞かれている回数から始めるほうが、着手までが早い場合が多いと考えています。
残すのは手順ではなく、「なぜそうしたか」
対象が決まったら、次は何を記録するかです。ここで手順だけを書き出すと、あとで使われないものになりがちです。
手順は読めば分かります。使う側が知りたいのは、その手前にある判断の理由のほうです。なぜこの取引先には先に電話を入れるのか。どういう条件のときに例外扱いにするのか。何を見たら「これは危ない」と気づくのか。この「なぜ」を引き出せるかどうかで、残した記録の寿命が変わります。
AIに向く部分
過去の対応履歴や資料の整理、たたき台づくりは比較的うまく回ります。
人から人への引き継ぎが必要な部分
取引先との関係性や、音や手触りで異常に気づく感覚は、記録の支援はできても継承には人が必要です。
一方で、AIに向く部分と向かない部分がある点も押さえておきたいところです。過去の対応履歴や資料といった情報の整理、たたき台づくりは比較的うまく回ります。他方、取引先との関係性や、音や手触りで異常に気づくような感覚は、記録の支援はできても、人から人への引き継ぎが引き続き必要になります(コレットラボ、2026年7月1日/要複数ソース確認)。ここを分けずに「全部AIで」と考えると、無理が出ます。
気をつけたいのは、「AIに詳しい人」への新しい依存
もう一つ、先に知っておきたい落とし穴があります。属人化を解消しようとして、今度は「AIを使いこなせる人」に業務が集中する状態です。うまく動くプロンプトや使い方のコツが一人の頭の中だけに溜まっていけば、依存先が入れ替わっただけで、構造は変わりません。
同じ調査では、生成AIを活用する企業の18.8%が「使いこなせる社員とそうでない社員の間で成果の差が広がった」と回答しています(帝国データバンク、2026年3月調査)。うまくいった指示文や運用の手順そのものを共有フォルダに置き、誰でも直せるようにしておく。地味ですが、これが新しい属人化を防ぐ現実的な手立てになります。
引き出した知識は、そのままでは効かない
最後に、先行する取り組みから見えてきた論点を一つ。AIによって知識の整理が進んでも、それだけで継承が終わるわけではない、という指摘があります。ベテランの判断はその場の状況と切り離しにくく、受け取る側が自分の状況に照らして納得しなければ、実際の判断には結びつきにくい。若手とベテランが議論を通じて「腑に落ちる」形にするプロセスが欠かせない、というものです(時事ドットコム、2026年8月21日)。
記録をつくることと、それが使われることは別の仕事です。私たちが導入支援で運用の定着まで一緒に見るのは、この差が現場では大きいためです。
今週できること
1週間、「誰が・何を・何回聞かれたか」を数える
上位3つのうち、最も手が届きそうな1つを選ぶ
その業務について、手順ではなく「なぜそうするのか」を30分だけ話してもらい、録音する
ここまでは、ツールの導入判断がなくても始められます。AIをどう使うかを決めるのは、そのあとで間に合います。
判断を人が持ち続けるために、その手前の作業を軽くする。属人化への取り組みも、この順番で考えると進めやすくなります。
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時事ドットコム(2026年8月21日)
TechTargetジャパン(2026年8月14日)
帝国データバンク「生成AIの活用に関する企業の意識調査」(2026年3月調査)
独立行政法人中小企業基盤整備機構「中小企業のAI等の利活用に係る実態調査」(2026年3月公表)
コレットラボ(2026年7月1日/要複数ソース確認)